「アンビリバボー」にロシア人の子供を

800人救出した茅原基治(かやはらもとじ

)さんが特集されます。

 

嫁(妻)や子供の事やなぜ彼が伝説的な

英雄として語り継がれているのに注目さ

れないのか?についてスポットをあてて

行きたいと思います。

 

早速行ってみましょう。

目次(コンテンツ)↓↓

  1. 茅原基治の生き様
  2. 茅原基治の嫁や子供は?
  3. もう一人の英雄、勝田銀次郎とは?
  4. 最後に

茅原基治の生き様

ロシア革命の当時の状況は、800名程の

子供がサンクトペテルブルクからウラル

地域を越えてウラジオストクへ逃れ難民

というようなケースにあった。

出典http://www.hiroshimapeacemedia.jp

その子供達を海から横断してフィンラン

ドに至るまで送った船が陽明丸で、その

局面の船長だったのが茅原基治さんです。

 

今現在では、岡山県に親戚がいますね。

 

1920年7月「陽明丸」は神戸を出発し、

ウラジオストクに到着するのです。

 

ところが、茅原さんに待っていたのはそ

の子どもたちの不安と将来に向けての事

です。

 

日露戦争の激しく勃発していた当時、ロ

シアにおいてはも日本は従来の敵国です。

 

茅原さんは子供達と信頼関係を築きたい

と流儀に徹し、日本へ出向く事を決めま

す。

 

室蘭に寄航し、全任務を取ると考えられ

るファクターで上陸許可を得ます。

 

そして向かったのは室蘭の小学校でした。

 

役所に相談し、子供達が触れ馴染むチャン

スの準備をして貰いました。

 

言葉は通じなくても子供同士。親しく付き

合うのにタイミングは必要ありません。

 

こうして日本人の温かさがロシアの子供達

のメンタル的な部分を解決させたんですね。

 

そして、船はフィンランドに対して大航海

を始めます。

 

茅原さんは子供達のために全力で音楽を演

奏したり積極的にコミュニティを図ったり

して、いつしか子供達は彼に絶大な信頼を

抱く事になります。

 

子供達はいつしか茅原さんを「ニイサン」

と呼び、子どもたちが急な発熱や病気など

をしても懸命な介護で子どもたちを守り抜

いたのだそうです。

 

しかも、船の操縦もしながらです。

 

全く信じられない話ですが、全て実話です

ね。

 

この話は約90年間、世に出ませんでした。

なぜかというと航海に関わった乗組員が勝

田さんと茅原さんが非国民の対応をされな

いよう固く口を閉ざしてきたといるでしょ

う。

 

とは言え、オルガ・モルキナさんと言うロ

シア人によって、この物語が世に知られる

ことになりますね。

出典http://blog.goo.ne.jp

オルガさんは、当時の日本人に助けられた

そうでお礼を告げるため当時関わっていた

日本人女性とロシアで出合い交流していま

す。

 

このことが公になり、この実話が世に初め

て公開されたと言う事です。

茅原基治の嫁や子供は?

歴史上の事では、現在も茅原基治さんの

嫁や子供の記録は残っていませんね。

 

おそらく、これだけ800人もの子供の

世話をしてきた人物ですから、結婚や嫁

さんのことなど考える余裕は無かったと

思います。

 

ただでさえ、戦争中なので自分の命も明

日あるかどうかも解らない環境で子供達

の世話を先優先してきた人物ですからそ

の功績は計り知れないものがあるでしょ

う。

 

ただ、年齢的にも当時は20代後半で若

かった事もあり、もし生涯独身を貫いて

いたのであれば本人としては一度は結婚

してみたかったのではないか。

もう一人の英雄、勝田銀次郎とは?

勝田銀次郎(かつだぎんじろう)さんは

1873年に愛媛で生まれ、18歳のと

なる時、近年の青山学院に相当する東京

英和学校に入学。

出典https://ja.wikipedia.org

その後、海運業の仕事に着き独立しまし

た。

 

自身の会社「勝田商会」を設置し、19

18年海運業界で奮闘していた勝田さん

がロシア革命が起こっていたと同時に治

安が悪化し重い食糧不足に陥っていまし

た。

 

そのために親は子供たちを遠く離れたウ

ラル地方へ疎開させていました。

 

ところが、移住した田舎町にも戦争の飛

び火が追いかけて来ては子供たちは難民

状態に陥ってしまいます。

 

それが後のロシア人子供800人の救出

劇に繋がります。

 

それらの内、米国赤十字が800人の子

供たちを保護し、ウラジオストクの施設

に移送したわけです。

 

しかも800人の子供たちの救出プログ

ラムを立てました。

 

これに関しては一度ロシアを離れ子供た

ちを故郷ペトログラードとほぼ一致した

安全なヨーロッパへ海路で移送し、その

後ロシアの混乱が落ち着いたのを見計ら

い親元に帰すといったプランでした。

 

とは言っても船舶専門会社の返事は一切ダ

メでした。

 

世界中の何処の国の企業も子供たちの移送

を引き受けてはくれ無かったそうです。

 

殆どの国はロシアと敵対関係にあった事か

ら、協力してくれる関係柄では無かったそ

うです。

 

そんな絶望的な状況下のなか、唯一最後に

残った海運会社が勝田さんの会社だったの

です。

 

もちろん日本も敵対関係にあって勝田さん

は相当悩んだと言います。

 

仮に任務を受け入れたら、敵対国の人間を

助けた事になり国民から非難を受けるのは

当然の事で下手をすれば国家からも反逆罪

として逮捕される可能性もあったからです。

 

しかも、船自体が800人もの子供を乗せ

る程のキャパを誇っておらず、かなり危険

な任務だと推測されていました。

 

しかし勝田さんは、決断したのです。

 

この子どもたちを守り抜くと。

 

その一方で、勝田さんには依然克服しな

くてはいけない課題がありました。

 

何故ならば船を操縦する船長を決定付け

ること。

 

各種の船乗りに船長を申請したわけですが

「800人の子供を船に乗せる」という

言葉にみな乗船を拒否。

出典http://ida-shinkou.com

ますます子供を移送する航路には戦争中に

仕掛けられた機雷が多く残っていました。

 

ところがここで唯一手を上げたのが茅原さ

んだったのです。

 

実は、茅原さんは数々の航海のキャリアが

あり、伝説の船長という形で知名度のある

人間だったのです。

 

この様に、勝田さんと茅原さんとの出合い

が重なり、ロシア人子供800人を救出し

たベースとなっている訳です。

最後に

いかがでしたか?

本当にこれが実話なのが信じられない程で

すが今の現代社会ではまずあり得ない話だ

と思います。

 

こんな過酷な条件でも、決断するその勇気

と行動力には頭が下る一方です。

 

やはり、昔の人は凄いとしか言いようがあ

りません。

 

是非、歴史を知る上は今後の自分の人生と

照らし合わせる事で勉強になると思います。

 

最後までご覧いただき本当にありがとうご

ざいました。

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