毎週月曜日放送の人気番組「世界ナゼそこに?日本人」にインドネシアで

うなぎのかば焼きを営んでいる石谷寿康さんが登場です。

 

インドネシアに移住してきて約40年にもなり7年前から

うなぎの養殖と蒲焼きの販売を自社工場で展開している石谷さん。

 

そんなうなぎの食文化をインドネシアに広げている第一人者ともいえる

方ですが、ここまでくるには壮絶な波乱万丈人生があったと言います。

 

今回はそんな石谷さんの、ここまでの経歴や過去にまつわるエピソード

なんかを徹底検証していきたいと思います。

それでは今回もさっそくピックアップして行きましょう!

目次(コンテンツ)↓↓

1、石谷寿康さんの経歴と壮絶人生がハンパない! ページ1

2、うなぎの蒲焼きが現地で大人気な訳は? ページ1

3、石谷寿康さんの年収が気になる! ページ2

4、最後に ページ2

石谷寿康さんの経歴と壮絶人生がハンパない!

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大分県国東市出身の石谷さんは3人兄弟の末っ子として

生まれ、戦後で貧しい家庭だったため幼い頃から川に遊びに行っては

うなぎを取り、うなぎ取りの名人だったそうです。

 

自分の取ったうなぎが人から喜ばれる姿を見て、うなぎにハマって

いったみたいです。

その後、工業大学に入学し卒業と同時に電気工事会社に就職して

同じ会社の従業員の方と26歳の時に結婚。

 

順調に仕事に励む中、28歳に時に突然インドネシアに転勤を

命じられ、生まれたばかりの子供や妻を残し単身インドネシアに。

 

その後も現地のインドネシアで懸命に子供や妻のために働く日々が

続き気が付けば3年間もの月日が経ち、ようやく仕事にも一段落し、

子供や妻を現地に呼び寄せて一緒に暮らし始めた矢先に、

今度はイランやイラクといった中東地域への転勤を命じられます。

 

さすがに危険地帯の中東地域へは妻や子供を連れていく訳に行かず

単身で中東へと転勤になった石谷さん。

 

自分の人生においてほとんど家族との幸せな時間を過ごすことが

出来ずに仕事人間に明け暮れていたと言い、そんなさなか妻が乳がん

を発症し55歳の若さでこの世を去ってしまいます。

 

石谷さんはほとんど出張で家にはいず、女手一つで子供を育ててきた

妻の死には、何も言葉が出なかったと言い大きくなった2人の子供は

成人してすでに独立しているそうで、残った子供たちだけには

迷惑をかけれないとして、一人インドネシアに残ってうなぎの製造を

始めたそうですね。

うなぎの蒲焼きが現地で大人気な訳は?

そもそもなぜ石谷さんはインドネシアでうなぎの事業を始めたんで

しょうか?

上記でもありましたが、幼い頃からうなぎ取りの名人だった石谷さんは

この事業を始めたのが7年前だそうで、当時趣味がてらにうなぎの飼育をしていた

石谷さんは、現地の人たちからうなぎの飼育をしている日本人がいる

として地元で有名だったそうです。

 

そんな噂を聞きつけた日本のうなぎ業者が突然石谷さんのとこへ電話し

是非インドネシアでうなぎの生産をやってくれませんか?と言う

依頼を受けたそうです。

 

何でもその当時日本では、うなぎがまったく不漁の時代で価格が高騰し

て単価もまさしくうなぎのぼりだった時代でした。

したがって、石谷さんにインドネシアでうなぎの生産をやってもらったら

安く仕入れることができるし、周辺地元民の雇用にもつながるとして

石谷さんに白羽の矢がたったわけですね。

 

今では、自社工場でうなぎの生産から養殖、販売まで全てにおいて管理しており

従業員も45名ほどの雇用を生み出しています!

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そんな石谷さんが育てたうなぎは瞬く間に、インドネシアに広がり

日本食の文化であるうなぎの甘辛いタレやご飯との絶妙なうな重が

大人気となっています。^^

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そのうなぎを厳しい目で管理しているのが石谷さんで、とにかく

徹底して妥協しない仕事が美味しいうなぎを作りだしているのは

間違いないでしょう。

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